数学的なものへの憧れ

前にもどこかで書いたけれど,僕は算数→数学と,とても苦手だった.なぜ点Pは動くのか意味がさっぱり分からなかったし(Why?),太郎と次郎が運動場をぐるぐる回り,どちらかがどちらかに追いつくまでの時間を測定する意味も分からなかった(頭がおかしいのか?).なぜ自分の影の長さを太陽の角度と合わせて計算しなければいけないのかもわからなかった(誰かに頼めばいい).何のために公式を覚え,何のためにxを求め(しかも変な形のXだし),何のために面積を求めているのか,さっぱりわからなかった.

しかし,AutoHotkeyというスクリプト言語を勉強して,わかったことがある.それは,数学的なものも,実はけっこうウェットだ,ということなのだ.

例えばスクリプトを書いているとき,ある動作をさせたいとする.その動作に到達する方法は,実はいくらかあるのが普通だ.つまり,目的や達成したい動作はすでに決まっていて,その工程を考えるのが,少なくともスクリプトでは重要なのだ.
エレガントな方法もあるし,そうじゃない方法もある.堅実な方法もあるし,無茶苦茶な方法もある.だけれども,目的が達成できれば,それでいい.そういう意味ではクールだけれども,やっぱりそれぞれの思想が出るからウェットでもある.

だけれども,公教育における算数/数学は,そんなことはない.何がゴールなのかは示されないし(点Pが動くとどうなるのか知っている人がいるのか?),方法がいくつもあるのだということも教えてはもらえない.

例えば三角形ABCと,三角形DEFが合同か証明するのに分度器を使ってはいけない理由も教えてはくれない.分度器を使わなくても解くことができるけれども,だからどうなのか,なぜそれは”証明”ではないのか,も教えてはくれない.つまり,実は証明はゴールではない,偽のゴールなのだ.じゃあ問題を変えろよ,と反感を持ってしまう.

ただし,今になって,少しだけ数学的なものへのあこがれも,出てきた.それは,特に点数に関してやいのやいの言われなくなったからだろう.誰にも傷つけられないのはとてもうれしい.

あるいは理系の人は,どこかでそういうことに気づいたのかしら.でもそれなら,数学の先生たちがこぞってあんなに非効率的な教え方をするはずがない.

ということで,やっぱりよくわからない.けれども,少しだけ偏見は解けたといえる.理系嫌いがいるわけもよくわかる.ああそれから,論理的思考っていうのの意味合いも,少しだけわかったような気がします.そう,ほんのひとつまみぐらい.

 

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