本に貼られた付箋と理解のできなさ

相手を理解できないのは,ある意味では当然だ,と再認識した話.

日本に帰ってきてから1ヶ月が経とうとしている.特に毎日なにをするでもなく,楽しくやっている(もちろん何かをしているから,楽しいはずだが).

自らの気持ちをちょっと社会モードに戻そうと, 地元の図書館に行く.ちなみに,平日の地元の図書館ほど,怖いところはないです.定年退職者,仕事をクビになったひと(これは漏れ聞いた話),(私のような)無職と,魑魅魍魎(というと失礼ですが)が跋扈しております.

さて.

友人がある本を読んでいると知って,ちょっとそれを借りにいきまして,何をするでもなく,ページを捲っていると,付箋(ポストイット,というやつです)が貼ってある.それも,ページから飛び出すように貼ってあるわけではなくて,ページの中に,行に合わせて貼ってある.

(ははーん,これはあれだな,気に入ったところやらに線を引けないから,貼ったんだな.)

と思って,この本を借りたであろう人に思いを馳せようと,その箇所を読む.

(ん?)

全然わからない.と言うのは,その箇所は特段,なにか重要なことを言っているわけでもなければ,結論めいたことを言っているわけでもない.教訓でもなければ,結末でもない.ただただ,むやみやたらに目を閉じて貼ったんじゃないか,と思うぐらいだ.

確かに,その付箋は,誰かが貼り直したかもしれない.僕みたいに性根の悪い人が,ヒッヒーってな具合で貼り替えたかもしれない.でも,そうじゃないとしたら,僕は怖い.元々その本を借り,感動したか激高したかわからないけど,何かを感じ,その付箋を貼った人と,僕は世界を全く共有していない,ということになるからだ.

でも例えば,その人が65歳のお姉さんだったとして,僕は確かに,なんの共通点も見つけることができないだろう.生活史も,世界から何を切り出すか,という有意性も異なるだろう(アルフレッド・シュッツ先生の言うとおりである).だから,それはまあ,実は当然なのである.逆に,共通点が合ったら,ちょっと怖いじゃないですか.逆に.

というわけで,僕は改めて世界を認識する.そして,提言する.相互理解なんて幻想ですよ,まずその理解から始めましょうと.

ペシミストだと言われるかもしれない.でも,相互理解を前提として行動し,傷つく人は多いはずだ,ということも,合わせて考えてほしい.どちらがより,前を向いているか.

そういえば,全然関係ないけれど,図書館で借りた本に鉛筆で線を引くクセのある人は,直ちに図書館に自首した方がいい.あれ,全部,気づいた司書さんが一枚一枚消しゴムで消しているのです.

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