もの

最近,もの(things)について考える機会が多い.この先どのように生きたいのか.どのように世界と向き合いたいのか,そのことを考える上で,ものに関する言及は避けられない.僕自身がトランク1つとリュックサックでルーマニアに来た時から,[必要なもの/必要で無いもの]を比較する機会に恵まれていると感じている.それはもしかしたら,ものへの向き合い方を考える,いい機会になっているのかもしれない.

僕らは好むと好まざるとにかかわらず,資本主義の中に生きている.つまり,限られたお金をせっせと稼いで,消費し,その消費したときの余剰で働き,また資本を貯める,ということだ.(と少なくとも僕は理解している.)

その中で,消費をすることはいわば運命づけられている.僕はお米を食べずに生きていくことは出来ないし,お米も食べられないままでは意味が無い.僕はお米を必要とし,お米も僕を必要としている.

それが[もの]になると,状況は一変する.消費とは言いながら,「消」されないものもある.あるいは,消費期間が非常に長いものもある.それらは,いったん片方でも必要性がなくなると,ゴミとなり,部屋に堆積する.「もの」の誕生だ.

例えば,プレーステーション2.PS2に僕が飽きてしまえば,あるいはPS2が壊れて僕を必要としなくなれば,それはゴミになる.ものになる.

それに対し,世の中に山ほどいる自称ミニマリストの人々は,ものに対するアンチテーゼ的な立場を持つ人たちだ(1).最近,彼らの動向を見ていると,感心する.あぁ,やはり[もののない暮らし]が僕らには必要なのだ.僕らはものによって,不幸になっているのだ.重荷になっているのだ,と.

だけれど,それは実は少しおかしいんじゃないか?と思い始めた.盲目的にミニマリストを信じることは,[もののない暮らしがいい]と主張することが,[ものがある/ものがない]という相対的な価値観の上に成り立っていることを,忘れさせるからだ.最近になって,TAVARATAIVAS(英題:My Stuff/邦題:365日のシンプルライフ)を遅ればせながら見たが,監督兼主演のルーッカイネン氏は,[生活に必要なものは100個.残りの100個は人生を楽しむため.]という.彼は,ものに溢れていた生活から抜け出すことが出来たから,ものに執着しない,という観点を手に入れることが出来ている.逆に言えば,物質的に貧乏である人は,このことに気づく機会すら与えられず,単にもののない貧乏な存在である,と思いがちだろう.貧乏な人がフェラーリを見て,[あのフェラーリは僕には必要がない]という境地にたどり着くには,相当な内省と創造力,哲学的考察が必要だろうと思う.

だって,消費は確かに,僕らを幸せにしてくれるじゃないか.買い物は楽しい.お気に入りの外付けキーボードは,不必要だが快楽的だ.Amazonにならぶおすすめ商品をみているのは,旅行に出かける以上に楽しい.ただ,消費されない過剰なものが残った時,それが僕らを不幸にするだけなのだ.つまり,消費を見こして買いましょう,そして,必要なくなれば,それを[消費=処分]してしまいましょう,と,実はそういうことだけなのだ.そういう,お金持ちのゲームなのだ,ミニマリストとは.

だから,捨てることも見込んだ購入計画を立てましょう,人からあまりものをもらわないようにしましょう,不要になったらすぐに捨てましょう,と,そういうことなのだ.そんな単純なことなら,私にだって出来そうだ.そして,それを盛大に自慢しようじゃないか.そう,(お金持ちゲームの参加者である)ミニマリスト,と,名乗りたいのであれば.

(1)なにをもって「ミニマリスト」とするかはかなり議論の分かれるところであるけれど(そして僕は定義が嫌いだから,できるだけ避けて言及したいけれど)生活に必要最低限のものと一緒に生きよう,と志す人,とでも言っておこうか.

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