同一思考達成の試行としての一人称小説

僕は一人称小説が大好きだ.二人称小説は奇妙だし(多和田葉子さんなどが書かれています),三人称小説はそっけない.

American Psychoを映画で見て,クリスティアン・ベールの演技に惚れ(Paul Allanを殺す前のムーンウォークなんか大好きです),しかし原作者から映画は嫌われているらしいと聞き,原作を読むことにした.

Huey Lewis And The News – Hip To Be Square – ListenOnRepeat http://goo.gl/6TjR4h

一人称小説では,僕はいろいろなものになれる.僕は,26歳の青年実業家(かつサイコ・キラー)であり,齢60の漁師であり,16歳の女の子であり,42歳の独身女性であり,宇宙飛行士であり,飛行機乗りであり,旅人であり,医者であり,コンピュータープログラマーである.読んでいる時,僕は解体されていき,僕は僕ではなくなる.

その感覚.他者への疑いのなさ.他者との同一性.100%のコミットメント.その感覚がたまらなく良い.僕は僕である必要が無い.僕は僕であることをやめてしまうことができるわけである.

確かに,よく文学研究などでは,一人称は「欺く」語りだという.我々は一人称の語りしか信用するリソースがないので,結果的に騙されていた,ということも起こるのだという.ショートストーリーでよくあるやつですね.

だけれども,小説における事実とか,一人称の狂気とか,そういうことをそもそも考えて読まないでしょう.とにかく,どっぷり浸って,同じ思考に埋められないと,そもそも楽しめないんじゃないでしょうか.娯楽としての読書.同一思考達成への試行のための読書.

よく考えると,よくある「太郎と次郎が校庭を自転車で時速6キロで~」という算数の文章題にリアリティーがこれっぽっちもなくて,僕が世界で嫌いなものトップ10にランクインしているのも,関係があるかも知れません.「僕は弟と,自転車で時速6キロで~」とすると,Slightly better (ほんの少しだけ良くなる). Don’t you think so?

というわけで,私はまずパラパラとめくっては,1人称小説かまずは見るようにしています.そういう判断軸もあっていいと思うわけです.読書に同一思考の達成を求めている人なら,というカッコつきで.

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