「二人」は社会ではないかもしれない

出典はよくわからないんだけれど,心理学では「私―あなた」の二者関係を「社会」とは言わないらしい.「社会は三人から.」それを僕は教育心理学の先生から聞いて,ずっと「そうなのかなぁ」に思ってきた.でもたぶん,こういうことだろう.

例えば,僕が女の子とデートをしていて,一緒に家に帰るときに「A通りを通って帰ろうよ」とガールフレンドに言う.それを聞いて,ガールフレンドは,「B通りのほうがいいんじゃない?」という.「じゃぁいいよ,B通りを通ろう」と,僕はいう.

些細だが,ここで僕は「なぜA通りはダメなのか」ということを考える.同様に,たぶんガールフレンドは,「なぜA通りのほうが良いと考えるんだろう」と考える.しかし,どちらの問いにも答えはない.別にそれは理論的でもなんでもなくて,真理とか,効率性とか,そういう問題ですらない,単に好みの問題の場合がほとんどだからだ.相手を説得するとかそういうことでもない.単に「AかBか」という50%-50%の選択上に,二人がたまたま偶然またがってしまっているだけだからだ.

こういうことは山程起こりうる.

醤油か塩か,イタリアンか中華か,電車かバスか,付箋かメモか,鉛筆かボールペンか,はさみかカッターナイフか.ソースかケチャップか.マスダードかペッパーか.レモンをかけるかかけないか.右から行くか左から行くか.などなど.

そういう細かい選択の連続上で,特に1つの選択肢への合意が必要な場合は,「二人」というのは厄介なのだ.なぜなら,1人が満足すれば,もう一方は満足しないことが,「2」という数上ですでに決定しているからだ.だから,双方が満足することは稀だ.これは単に好みや直感や習慣的な問題で,説得不可能であり,なにより説得するほど重要でもないからだ.

でも,気になっちゃうんだよねぇ.やだねぇ.

それを意見の押し付けで解決しようとか,相手の意見を変えようとすること自体が,間違っている.「なぜ彼はわかってくれないんだろう」とか,「なぜ彼女は違うように考えるんだろう」と考える時点ですでにおかしい.「あの人は自分勝手だ」と結論付けるなんてもってのほかだ.相手も全く同じような気持ちになる可能性だってあるのだから,それに気づかずに自分勝手だと決めつけるのは浅はかもいいところである.

ということを考えると,やっぱり二人は社会ではないのかもしれない.話し合いで解決したり,どちらかが損した気持ちで過ごすようなものは,社会とは到底呼べないと僕は思いたい.「私-あなた」は少し人間関係では特殊なのかもしれない.

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